思い出す度に「何であんなことを言っちまったんだ」と羞恥や後悔のあまり頭を抱えて転げまわりたくなる過去というのは誰もが少なからず持っていると思うのだが、例えばそれは俺の場合、身を挺して俺の命を守ってくれた代償に眼鏡を壊してしまった宇宙人の少女へ眼鏡属性がどうの言ってその後の彼女の容姿にさり気なく影響を与えてしまったことだったり、成長した姿で現れた未来人の少女にその立派な胸元の谷間を見せつけられて動揺したとはいえ言うに事欠いて特盛と口走ってしまったことだったり、世界の命運を賭けた非常事態の中でクラスメイトの少女にポニーテール萌えであることを唐突にカミングアウトしたところ即行で「バカじゃないの?」と呆れ顔で返されてしまったことだったり、そのくせ翌日その髪型で現れた後ろの席の女にまた「似合ってるぞ」なんて自分でも気持ち悪くなるくらい爽やかに言ってしまったことだったりするわけで、こうして話しているだけでも首筋辺りを掻き毟りたい衝動に駆られるのだが、その後は特にその話題に触れられず彼女達との関係も比較的良好である現状を考慮するならば、これは俺が勝手に悶えるだけで済んでいるという比較的マシな失言もしくは失態パターンであろうことは理解していただけるだろうか。
そして俺は今回もまたそんな話のネタを提供するハメになるのだが、これは果たしてマシなのか最悪なのか、どうなんだろうね。 はじめに言っておく。 断じて俺は変態じゃないぞ。 『ハマるな危険』 性的嗜好、所謂フェティシズムというのは程度の差はあれ男女問わず持っているもので、例えば胸や尻や脚といった体の特定のパーツに魅力を感じるというのが一番分かりやすいだろうか。 ただ、得てして自分のソレが他人に共感してもらえるとは限らないわけで、むしろ嗜好がマニアックになるにつれて、それが理解できない人にとっては共感どころかむしろソイツ自身も含めて嫌悪の対象になるのが怖いところだ。 「200X年に起きたこの災害は、日本どころか世界中にその影響を――」 だから迂闊に他人には話さないことが多いんだろうな。何せこういうのは各人強い拘りがあるから、自分の嗜好が共感されるかどうかが判断し辛い。暴露してみれば意外と同志はいるものだというのも理屈じゃ分かっていても、割り切って思い切れないのが人間であり、思春期の難しい心の内ってやつである。 「これによる問題は、直接的な火災による被害よりもむしろ――」 とはいえそれでも今、ひとつだけ確実に断言できることがある。 アイツは確実にアウトだ。 教科書を片手に先生が説明をしながら黒板へ板書を続けている静かな教室内で、明らかに異質な空気を撒き散らしているアイツ……クラスメイトの山根。 「これによって交通機関は完全に麻痺状態となり――」 (くんくん……ハァハァ) 先生が背後の様子を察していないのをいいことに、身を乗り出して口を大きく開けては鼻の穴を限界まで広げて、前席の女子の匂いを肺いっぱいに吸い込んでいる。 その姿はどことなく酸素の足りてない金魚のように見えなくもないが、周りの奴らのドン引きな反応を見るまでもなく可愛げなんて欠片もありゃしない。あの何かがキマったかのように虚ろな表情、最早あれは放送禁止レベルだろう。ハッキリ言って気持ち悪い。周りの奴らも俺と同様で、だからこそ自分から注意するのも躊躇われるんだろうな。変質者とマルボウには、誰でもなるべく関わり合いにはなりたくないものだ。 「コンピュータネットワークが遮断されるということがここまで甚大な被害を――」 その変態的な被害に遭っている女子も、まさか自分の置かれた状況に気付いていないってことはないだろう。 表の顔は成績優秀にしてクラスメイトの人望も厚く、気さくで優しい委員長。しかして真の姿は長門と同じ情報統合思念体がハルヒ観察のために送り込んできた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスである、あの朝倉涼子に限って。 何を考えて放置してるんだか。「私には人間のフェチっていう概念が理解できないんだけど」なんていうんじゃないだろうな。だから平気にしてるとか。 と思ったが、そういうわけでもないらしい。 「ただ、奇跡的にこの時死者はひとりも出ず――」 堪えかねたのか一瞬振り返って、それで伺えたその表情は完全に困りきっていた。基本的に何でも笑顔でやり過ごしているあいつにしては、珍しい表情だ。まあ、当然っちゃ当然だが。 むしろよくここまで我慢してるもんだ。俺の後ろで今すやすやと眠りについているハルヒがあの立場であれば、授業中だろうが関係無しに山根に大声で罵詈雑言を浴びせ、胸倉掴んでパンチの数発でもお見舞いしているかもしれない。 などと考えていたら、朝倉とぱったり目が合った。キョトンとそのまま固まっていると、何やら口をパクパク動かしている。 (お願い、助けて) 「……」 いや、そんなこと言われてもなぁ。 助けを求めたくなるその心中は十分すぎるほど察してやれるが、ここからどうすりゃいいんだよ。隣の国木田にでも求めればいいだろうに、なんでわざわざ席が遠い俺にSOS信号を送るんだ。 大体、お前ならその気になれば山根ごとき普通の人間くらい余裕でどうにか出来るだろ。俺を2度も殺しかけたんだ、そのある意味ハルヒ以上に有り余る積極性をこういう時に発揮しなくてどうするんだよ。何だったら得意のナイフでもちらつかせてやればいいんだ。そうすりゃ2度とそんな目に遭わなくて済むぞ、たぶん。 という意味合いの視線を送ってやったら、今にも泣きそうな顔になりやがった。 ……なんだよ。俺が悪いのか。 「信じられないかもしれませんが、原因は当時世界中で大流行していたとあるネットゲームにあると言われ――」 はぁ、と俺は盛大に溜息を吐いた。わざと朝倉に見せつけるように。 何故に感じる必要も無さそうな罪悪感を植えつけてくるかねアイツは。これで放っておいたら、完全に俺が薄情モノみたいじゃないか。 いいか朝倉。この貸しはデカいからな。 (佐伯、いらない消しゴムとか持ってないか。消しゴムじゃなくてもいいんだが、とにかく捨ててもいいやつ) 隣の席に小声で話しかける。 俺と朝倉の一連のやり取りを見ていた佐伯は、俺がやろうとしていることを即座に理解してくれたらしく、(チョット待ってね)と真新しい消しゴムを定規で二つに切って、その片方を俺に手渡してくれた。 新品なのにすまんな。明日新しいの買って渡すよ。 (そんなのいいってば。なんだったらこっちも使っていいから) そう言ってもう片方も俺の机の上に置いてきた。まあ、俺の意図通りにいけば1発で終わるから大丈夫だ。 「以上が俗に言う『ネットワーククライシス』の全容であり――」 さて、と。 俺は右手にしっかり消しゴムを握りこんで、座った体勢のまま大きく振りかぶった。 そして一瞬朝倉の方へ目を向け、視線だけで合図を送る。 (…………) (!) はたして俺の意図を理解した朝倉は表情を一転して笑顔になり、了解とばかりにウィンクをひとつかまし、自分は再び黒板のほうへ首を戻した。意外とすんなりアイコンタクトが成立したな。 というわけで、俺は特に狙いもつけず大雑把に、思いっきり消しゴムを山根の方向へと投げつけた。 その日の放課後。 掃除当番というだけでもだるいのに、ゴミだしジャンケンで見事敗者となった俺が空のゴミ箱を抱えて教室に戻って来ると、他の連中は既に帰ったか部活に行ったかしたようで、夕暮れの教室には誰も居ないばかりか電気も消されていた。 やれやれと軽く溜息を吐きつつ、入り口付近に乱暴にゴミ箱を置く。薄情なヤツらめ、ひとりくらい待っててくれてもいいだろう。 と、こんなところで愚痴っている暇は無い。俺も早く部室に行かないとな。じゃないとハルヒにどやされる。 鞄を取りに、自分の席までダラダラと向かう。 「あ、キョンくん」 不意に入り口から呼ばれた声に振り向くと、そこにいたのは朝倉だった。 「おう。なんだ、まだいたのか」 「委員長会議から帰って来たところ。今日は明日配るプリントを貰っただけで終わっちゃったんだけどね」 笑いながら、両手に抱えた紙の束を持ち上げてみせる。委員長も大変だね。仕事が面倒そうで、俺ならとてもやる気がしない。 「そうかな。言うほど大変でもないし、内申も上がるし、やっておいて損はないと思うけど」 なるほど。まあ、そもそも選ばれることが無いだろうけどな。普段の素行や成績の面もそうだが、それ以前にお前がいる限りクラスのまとめ役は不動の地位だろうよ。そこを押しのけてまで立候補するつもりも毛頭無いし。 「それはもしかして、褒められてる?」 「貶してるつもりは無いが」 「そっか。なんか嬉しいな、キョンくんに褒められると。ふふっ」 そう言ってはにかむ朝倉。なんだそりゃ。意味が分からん。 「だってキョンくん、普段は私に冷たいから。何かとあればナイフがどうとか、殺人鬼とか言うし」 そりゃだってなぁ。それくらいの嫌味を言う権利はあるだろ。こっちは2度も命を狙われたわけだし。 「はぁあ、傷つくなぁ。そうやってすぐいじめるんだもの」 わざとらしい溜息を吐きながら、教卓のほうへトコトコ歩いていく。 俺は実際に傷つけられたどころか、長門がいなけりゃ普通に死んでたんだが。 むしろ改めて考えると、こうしてお前と普通に会話してる自分がおかしい気もするぞ。 「……それもそうだよね」 そこで納得するなよ。お前が同意してどうするんだよ。 「ねえ、なんで?」 「何が?」 「あんなことがあって、どうして私と普通に接してくれるの?」 「……はぁ?」 思わず顔をしかめて朝倉を見たが、その表情を見るに本気で訊ねているらしい。 それならこっちも真面目に答えるが、ただ、なぁ。 「今更何を言わせるかね、お前は」 「え?」 当たり前のことを改まって言うのも、中々恥ずかしいんだぞ。 「友達だからじゃないのか」 お前が戻って以来、ハルヒがお前をSOS団の活動に巻き込んで散々一緒に色々なことをやったじゃねーか。あのマンションにお呼ばれして長門や喜緑さんも交えてメシ食ったりしたのも1度や2度じゃないし、そうなると学校だけで一緒に過ごすただのクラスメイトっていう範疇じゃないだろ。 だから俺は、お前のことをそう思ってるんだが。 一旦背を向けて鞄を引っ掴み、肩に担ぎながら朝倉のほうへまた向き直る。 「…………」 何故か朝倉は、大きく目を見開いて固まっていた。 どうした? 「友達?」 「あ?」 「私、キョンくんの、友達?」 「…………」 おい。まさか今更、「私は仲良くしてるつもりなんてない」とか言う気か。 そんなこと言われたら、俺のほうがショックだぞ。お前との付き合い方も考え直さなけりゃならん。勘違いしてた俺が馬鹿みたいじゃ、 「〜〜〜〜っ!」 いきなり大きくかぶりを振ったかと思えば、朝倉は手に持ったプリントを教卓の上へ乱暴に放り出し、そのまま両手を広げて俺のほうへ突進して―― 「って、うおっ!?」 鞄を放り出して咄嗟に身構え、朝倉のタックルをなんとか踏ん張って受け止めた。 図らずも、朝倉と抱き合う形に……って、いきなり何だ? 「お、おい?」 そんなに正面から引っ付かれると、なにやら胸の辺りの柔らかい物体が押しつぶされてる感触丸分かりで、その、困るんだが。 それに、谷口の言葉を借りるならお前はAAランクプラスの美少女であって、俺もその評価へ特に異論は無いわけで、夕焼け色に染まる教室に2人きりでそんなヤツと抱き合っているというこのシチュエーションは、なんというか健全ないち青少年としては非常に色々と持て余すものが、 「ありがとう」 「え、」 「本当はね、少し不安だった。普段は普通に接してくれてるけど、本心じゃやっぱり私のこと今も憎んでるんじゃないかって。私が嫌いだから、ナイフとか殺人鬼とか言ってるんじゃないかって」 「…………」 「だからそんなふうに呆れた顔されて、当たり前のように友達って言ってもらえるなんてちっとも思ってなかった」 「…………」 「良かった、嫌われてなくて本当に良かった」 背中に回してきた腕に、さらに力を込めてきた。顔を思いっきり俺の胸に押し付けてくるこいつは今、どんな顔をしてるんだろう。 その感触にしばらく身を委ねていたが、やがて俺は朝倉の背に優しく手を添えた。 「すまん。俺も配慮が足りなかった」 俺にしてみれば男友達にアホバカ言うのと同じ感覚だったから、正直、俺の言葉をそんなに気にしていたなんて思ってもみなかった。 それに、あの「死の概念が理解できない」という発言だったり、自分が消えていく時でさえ最後まで笑っていたのを目にしたせいで、俺の中で朝倉のことを無感情なヤツだと決め付けていたのかもしれない。普段の人当たりの良さすら、人間社会に溶け込むのに都合がいいからだと。 でも、そうだよな。長門だって俺達と一緒にいるうちに、感情ってものが出始めたんだ。元々俺達と変わらず表情豊かだったこいつが、陰で傷ついたりしてても全然不思議じゃないのに。 まったく、自分にやれやれだ。 感謝の気持ちを体当たりでぶつけられる資格なんてないじゃないか。 「ありがとう、キョンくん」 顔を上げて俺を見上げる朝倉。 視界いっぱいに捉えたその笑顔は、谷口のランク付けなんてアホらしく思えるほどに綺麗だった。 「悪かった。もうナイフがどうとか言わない」 「いいよ、言っても。もう何とも思わないから」 「それはそれでどうなんだよ。ちょっとくらいは責任感じてくれ」 俺が苦笑いすると、朝倉はそれを見て楽しそうに笑った。 「――あ、そうだ。もうひとつありがとう言わなくちゃ」 「ん?」 「ホラ。山根君の」 「…………あー」 忘れかけていた。授業中のあれか。 つーか、あれは俺が助けたというか、結果的にトドメはお前が刺したというか。 コントロールに不安があった俺は、アイコンタクトで朝倉に投げた後の誘導を頼んだのだが、それがまた急加速のおまけ付だったせいで、頭にヒットしたのがとても消しゴムとは思えない音だった。ゴスッとかバキッとか、擬音ならそんな感じだ。 当の山根は言葉にし難い呻き声を出しつつそのまま盛大に倒れ込んだのだが、誰にも助けてもらえず、むしろ周りは剛速球の一撃で山根をしとめたように見えたであろう俺に向かって、授業中にも関わらず感嘆の声と惜しみない賞賛の拍手が…… 「隠れた天才球児! 消しゴムでクラスメイトの頭をかち割る剛速球! なんてね」 そんな見出しで新聞に載りたくねーよ。 何が起こったか分からない様子の先生や、目を覚まして鬱陶しそうにしていたハルヒに気を配る余裕なんて無かったぞ。あの時ばかりはさすがに山根の命が心配だったし、デカいコブだけで済んだみたいで心底ホッとした。 まあでも、山根は自業自得にしても、あれはお前だって悪いからな。 「ええ? 私、被害者だよ?」 不満げに眉を八の字にする朝倉。 「クラスメイトだから関係がこじれないように気を使ったのか知らんが、嫌なら嫌って言わないとダメだろ。お前のためにも、アイツのためにもならないぞ」 「んー。そっか、じゃあこれからはそうする」 「ん」 まさかこの俺が優等生に説教とは。何となく気分は娘に諭すパパである。朝倉は朝倉で妙に聞き分け良く返事したもんだから、尚更そんな感じだ。 で、それはそれとして。 「なあ、そろそろ離れないか」 さっきから抱き合ったままなのである。娘よ、パパは恥ずかしがりなお年頃なんだが。 しかし朝倉は尚も腕に力を込め、再び俺の胸元に顔を埋めた。 「んー」 「唸ってないで、離れろって。何がしたいんだお前は」 そう言いながら俺が力ずくで振りほどいて逃げようかと考えている時、朝倉が唐突にポツリと呟いた。 「……キョンくんの匂い」 「は?」 思わず固まってしまった。なんだって? 「あのね、こうしてるとキョンくんの匂いがする」 「…………」 いきなり何やってんだお前は。そんなもの匂うなよ。 「あ、ちょっと分かったかも」 「何が」 「うん、なるほどね。これがキョンくんの匂いか」 なるほどじゃねぇよ。ひとりで勝手に納得しないでくれ。 汗臭いのでも気になったか? 個人差は多少あれども、男の体臭なんてこんなもんだぞ。たぶん。 「そういうのじゃなくて、んー、どう説明したらいいかな。ホントにこれ、キョンくんの匂いとしか言いようがないんだけど」 そう言って、思いっきり息を吸い込む朝倉。 ……改まって自分が被害に遭ってみると、これはあまり嬉しいもんじゃないな。 男の俺ですらそう思うんだから、女子なんてもっとそうだろう。 「おい、やめろって。クサイだけだろ」 「いい匂いだよ。クセになりそう」 何でだよ。何がだよ。どうしてだよ。意味が分からんぞ。 いかん、これはめちゃくちゃ恥ずかしい。 「山根君、というか匂いフェチな人の気持ち、すっごい分かっちゃったかもしれない」 すっごい分かっちゃったか。それはちょっとマズい気もするな。正気に戻れ。 「うん、無理。戻れないかも」 かえって来い。可及的速やかに。 「んー」 「ちょっ、おい、うわっ!?」 もっと顔を押し付けてきたのでさすがに逃れようともがいたが、引っ付かれてるうえに両腕をがっちり捕まれていたのが拙かったようだ。 一歩退こうとしたら朝倉の足と絡まって、見事に後ろへすっ転んだ。 咄嗟に腕を引き抜いて、無意識に朝倉を抱える。 そして来るべき衝撃に身を硬くするが、背中に感じたのは固い床の感触ではなく、厚いクッションの上に飛び乗ったときのような柔らかさ。 「ビックリしたね」 どうやら朝倉がお得意の手品で、床を柔らかくしてくれたらしい。倒れこむ瞬間だけそうしたようで、今2人で倒れこんでいる地面の感触は元の教室の床そのものだった。 助かった。打ち所が悪けりゃ大怪我だからな。 「サンキュ、朝倉」 「どういたしまして」 情報操作もこんな使い方なら、いくらでも大歓迎だ。将来はレスキュー隊にでも就職すればいい。 ほっと息を吐き、朝倉を離して起き上がろうとして…… 「…………」 「? どうしたの?」 抱えた腕の中から、キョトンとした朝倉の顔が覗き込む。 「……なあ朝倉、お前香水とか付けてるか?」 「……付けてないけど?」 「そ、そうか。いや、すまん。なんでもない。忘れてくれ」 慌てて早口でまくし立てながら、今度こそ朝倉を離して起き上がろうとする。 しかし、どうにも余計なことを訊いたのはまだしも、その後あからさまに動揺したのが失敗だった。 俺が動くより早く、上から圧し掛かるような体勢で朝倉は俺に抱きついてきた。 「ちょっ、」 「私の匂いにドキドキした?」 退けと言う暇も、否定できる精神的余裕も、弁解する余地すらない電光石火のひと言。 イタズラっぽく口の端を上げたその笑顔が無駄に煽情的だったせいか、顔に何かの熱を帯びていくのが自分でも感じられた。せめてもの抵抗に顔を背けようとするが、それを楽しそうに追いかけて覗き込んでくる。 「そんなに照れなくてもいいじゃない。これでおあいこだし」 「……嫌じゃないのか、おまえは」 「んー、恥ずかしいけど、キョンくんになら嫌じゃないかな」 そう言って、にっこり笑う朝倉。 この際だから正直に言おう。 起き上がろうとした時に俺の鼻を擽った朝倉の匂いに気を取られて、一瞬固まってしまった。ああ、そうさ。一瞬固まるくらい、めちゃくちゃいい匂いだったんだよ。それを手放すのが惜しかったというか。 さっき朝倉が「俺の匂い」としか言わなかったのが、ようやく理解できた。 確かに、香水とか、風呂上りの香りとか、はたまた汗とか、そういうのとは全く違う、もしくはそういうものが全部内包されてるものなのか、男の本能を刺激してくる女の匂いというか、フェロモンというか……とにかく「朝倉の匂い」としか表現しようがない。 これはマズイ。俺も山根を責められなくなったかもしれん。 「ん……」 気がつけば、朝倉はまた俺の胸に顔を埋めていた。 「こうしてるとね、なんか落ち着くの」 呟くようにそう言った朝倉の声は、どことなく蕩けているように感じる。 俺の匂いはアロマテラピーか何かかよ。こっちは全然落ち着かないぞ。 あえてもう一度説明しよう。夕暮れの教室で、仮にも美少女と2人きりで床に寝転がって上から圧し掛かられているというこの状況。しかもいい匂いだとかマニアックなことを言われたり、言わされたり。 これで冷静でいられる思春期真っ只中の男子がいたら、そいつはきっとホモか、経験豊富でこれくらいじゃ何とも思わなくなってるかに違いない。何の経験かは察してくれ。 そして俺はどっちにも当てはまらない、ごく普通のいち青少年であるわけで。 時には、後先考えず目先の欲望にふらふらと手が伸びてしまうことだってある。 「…………」 恐る恐る朝倉の背中に両手を回し、そのまま顔を朝倉の髪に近付ける。 やがて羽毛のように柔らかいそこに顔を埋めると、朝倉の肩が一瞬ピクリと微かに跳ねた。 目を閉じて、ゆっくりとそこから朝倉の匂いを吸い込む。 さっきよりもはっきりと嗅覚を満たしていく、えもいわれぬ甘い香り。 「ぅんっ、」 くすぐったかったのか、肩を竦めてくぐもった嬌声をあげる朝倉。 その反応に少し怖気づいて、顔を離す。 「あっ、止めないで。今のくすぐったいけど、ちょっと気持ちよかった」 顔を上げて、名残惜しそうな目を向けてくる。 その、なんだ。そんなに瞳を潤ませるな、本格的に理性がやばくなる。 「ねぇ、このまましばらく嗅ぎあいっこしよう?」 ……なんつー提案をしてくるんだ。思いっきり変態っぽいぞ。 「1度やっちゃったら、もう何回やっても同じって気がしない?」 それもなんだか問題発言な気もするが。 しかし、特に反論も思い浮かばない。 答える代わりに、朝倉の頭を抱え込んで胸に押し付ける。そして俺が再び朝倉の髪に顔を埋めると、くふっと朝倉が笑い声を上げた。 「それ、頭の先からお尻のほうに向かって、体の中を一直線に羽先でくすぐられてるカンジ」 「喩えがよく分からん」 「感じちゃうってこと。キョンくんのえっち」 「っ、」 こいつ、わざと俺の理性を失くさせようとしてないか? 言うこと成すこと、いちいちエロい。 次に変なこと言われたら本気でどうなるか分からんぞ、俺。今の時点で既に、周りの状況がよく分かってないんだからな。 ――そう、分かってなかった。 だから全然気付かなかったんだよ。 「あのぅ。お楽しみのところ、本当に申し訳ありませんが」 「ほあぁっ!?」 「きゃあっ!?」 いつの間にか、脇に立って俺達を見下ろしていた喜緑さんの存在に。 突然声をかけられて、本当に心臓が止まるかと思った。そりゃあもう、ハルヒに関わって色々な体験をしてきた俺としては、真夜中の墓場で幽霊が運動会をやってたってここまで驚きはしないんじゃないかってくらいだ。 周りの机や椅子にあちこち体をぶつけながら、わたわたと立ち上がる俺と朝倉。 「喜緑さん、いつから!?」 「朝倉さんが教室に入って『あ、キョンくん』とあなたに声をかけた辺りからでしょうか」 それって最初からじゃねーか! じゃあナニか、俺の「お友達」発言とか、その後朝倉が抱きついてきたこととか、今の変態ちっくなやり取りとか、まるっと全部お見通しか!? 「とても感動させていただきました。『あたしぃ、キョンくんに嫌われてなくて良かったぁ』『イジワルしてゴメンよ』『あん、もっとイジメてぇ』『ははっ、こいつぅ』……ああん、ラブラブですねぇ」 「ちょっと! いくらなんでも悪趣味すぎない!?」 おそらく朝倉のセリフだと思われる部分を無駄にしなりをつくって、そしておそらく俺のセリフだと思われる部分を無駄に凛々しい顔になって。 セリフとキャラづくりを大幅に改変したひとり芝居を披露した後、両手を頬に当ててイヤイヤする喜緑さんを、照れなのか怒りなのかよく分からない様子で顔を真っ赤にさせた朝倉が責めたてる。肩を掴まれガクカクと揺すられて尚、喜緑さんはしなりつつ朝倉のセリフを真似てからかっていた。 「『キョンくんの匂い……すーはー、くんかくんか』」 「そこまで変態っぽくない!」 「…………」 なんだか朝倉とあのまま変な方向に進まなくて少しホッとしたような、喜緑さんの邪魔が入って少し残念のような、正気に戻ってどっと疲れたような。 複雑な気持ちで、深く溜息を吐いた。 「もうっ! 大体なんで喜緑さんがここにいるのよっ!」 確かにその朝倉の疑問はもっともで、俺も気になっていた。 わざわざ覗き見するためだけにやって来たとしたら、暇人ってレベルじゃないぞ。 「私としましては、このままあなた方が情事に耽るのをじっくり記録することもやぶさかではなかったのですが」 どこからともなくデジカムを取り出した……って盗撮かよ。録ってどうする気だ。 それを素早く取り上げ、親の仇のごとくゲシゲシ踏みつけて壊す朝倉。 「しかし立場上、あなたが他の女性といちゃいちゃしているところを涼宮ハルヒさんに目撃されたりして、不必要に刺激を与えるのは避けたくもあるのです」 「ハルヒ?」 いや、あいつは今頃部室にいるんじゃ? 「ちょうど、あと10秒後でしょうか」 言いながら、喜緑さんがドアのほうへと目を向けた。 怪訝に思いつつも、俺もそっちに目を向けてみた。 「…………」 廊下の向こう側から段々と、誰かが早足に歩いてくる靴の音が聞こえてくる。 まさか。 そして喜緑さんの宣言どおり、きっかり10秒経って。 「こらぁーキョン! 掃除ごときにいつまでかかってんのよ!」 開けっ放しだった入り口に怒鳴り声と共に姿を現したのは、腕を組んで仁王立ちに構えるハルヒだった。 「って、あれ? 朝倉はともかく生徒会の手先がなんでウチのクラスに居んの? 何の集会?」 「涼宮さん……」 「こんにちは」 俺と同様にポカンとして名前を呟く朝倉と、優雅に頭を下げて挨拶をする喜緑さん。 ハルヒはハルヒでキョトンとしていたが、直ぐにハッとした表情になる。 「ははーん、読めたわ」 不敵な笑いを浮かべ、つかつかと喜緑さんのほうへ近付いて行く。 「キョンが中々部室に来ないと思って迎えに来てみれば、まさかあたしの見てないところでキョンだけじゃなく朝倉まで勧誘してるなんてね。生徒会も姑息なマネしてくれるじゃないの」 ずい、と人差し指を喜緑さんの鼻先に突きつけるハルヒ。 言うまでもなく完璧な勘違いだが、しかし本当のことを言うわけにもいかない。 そこでこれ幸いと思ったのか、それともハルヒのこの発言すらも計算ずくだったのか。真相は分からないが、喜緑さんは俺や朝倉から見ればわざとらしい苦笑いを浮かべた。 「まさか団長自らがこの場に現れるとは想定外でした。大失敗ですね」 「ハン、くだらない悪巧みなんてするからよ。どうせあの陰険メガネの作戦でしょ。大方、ウチを内部崩壊させて労せず解散させようって魂胆ね?」 先輩の生徒会長を陰険メガネ呼ばわりか。 「でもおあいにく様、あたしのSOS団にはそもそも悪の手先に寝返るようなヘタレなんてひとりも居ないの。あいつに伝えなさい。あたし達は逃げも隠れもしないから、向かってくるなら正々堂々と正面からきなさいってね!」 俺と朝倉と喜緑さんが教室に居たってだけでそこまで想像力を働かせ、あまつさえ余計な喧嘩を売ってしまうのには、呆れるどころか最早本気で尊敬できるレベルだ。 しかも不覚なことに、まるで俺と朝倉を守るように背にして仁王立ちするその後ろ姿に頼もしささえ感じてしまった。 「かしこまりました、確かにその旨を会長に伝えます。では、私はこれで」 もう一度丁寧に頭を下げ、喜緑さんは教室を出て行った。入り口に差し掛かった時、振り向いて意味ありげに俺と朝倉へニッコリ笑いかけつつ。 なんだかんだで、あの人に助けてもらっちまったな。喜緑さんがあそこで止めてくれなければ、床に寝転がって抱き合う俺と朝倉を発見したハルヒがどんな勘違いをしていたか考えたくも無い。古泉にも「自重してください」なんて嫌味を言われたかもしれん。 「感謝することないんじゃないかな。きっとあの人、涼宮さんが来なければずっと黙って私達のこと覗いてたに決まってるんだから。これくらいのフォローは当然よ」 ハルヒに聞こえないように、膨れ面で俺に囁いてくる朝倉。散々からかわれたことを根に持ってるのかもしれない。 まあ、そう言うなって。喜緑さんだってそこまで悪い人じゃないさ……多分。 ここは最悪の事態を回避できたことを素直に喜ぼうぜ。 「……最悪の事態って?」 「ん?」 「涼宮さんに見つかっちゃうこと? それとも、私と変態さんになっちゃうこと?」 「……さてね」 「あ、ずるい。ちゃんと質問に、」 朝倉が俺に詰め寄ろうとしたタイミングで、ハルヒが俺達の方へ振り返った。 「さあ、敵は去ったわ! というわけでホラ、ちゃっちゃと部室に行くわよ。有希もみくるちゃんも古泉君もとっくに来てるんだから」 言いながら俺と朝倉の手を掴んで、ずかずかと大股で歩き始めるハルヒ。 「あれ? え、あの、私も?」 「こんなところでくっちゃべってたんだから、どうせ暇なんでしょ。だったらアンタも来るの」 「……そうね、じゃあお邪魔しようっと。キョンくんに聞きたいこともあったし」 なんだよその厭らしい目は。 もしさっきと同じ質問だったら、答えようがないからな。どっちも当てはまる気がするし、どっちも違う気もするし。 「だから、そういう曖昧なのはずるいってば」 「うるさいな、仕方ないだろ」 俺自身、よく分かってないんだから。 「あーもう、2人ともごちゃごちゃうっさい! ホラ、走るわよ!」 「きゃ、」 「うお、」 2人分の重さをものともしないで、全速力で走り出す。 ハルヒに引きずられて足を動かしつつ、朝倉が耳元で囁いた。 「ちゃんと答えを聞かせてもらうからね」 「だから分からんって」 「なら答えてくれるまで、キョンくんにずっと引っ付いて匂いを嗅いじゃうから。明日から教室でも、涼宮さんの前でも」 「……冗談だよな?」 「さて、ね?」 いたずらっ子のように朝倉はペロッと舌を出して、ハルヒに並んで走り出す。 って、おい。 「何、勝負しようっての? 受けて立つわよ!」 「ホラ、置いてくよキョンくん!」 「負けないわよ! ぅりゃー!」 俺の手を離し、楽しそうに奇声を発しながらスピードを上げるハルヒと、それに難なくついて行く朝倉。 「おい待てって! 朝倉、さっきのホントに冗談だよな!?」 「聞こえなーい」 「聞こえてるじゃねーか!」 そして、必死にその後ろを追いかける俺。この先平穏な毎日を過ごすためには、さっきの不穏な発言を取り消させなきゃならん。 かくして俺は学年で1、2を争う運動神経の持ち主2人を相手に、夕日の差し込む長い廊下を全力疾走する羽目になったわけだが、凡人の俺にあいつらを抜き去るなんて真似が出来る筈もなく、むしろ部室に着くまで1メートル以上距離を離されずについて行ったことを誰かに褒めて欲しいところだ。 よくよく考えれば、どうせ部室に集合するんだからその時に問い詰めれば良かったんだよな。なんで俺まで一緒に走っちまったんだ。アホか。 とまあ、中途半端ではあるが、ここら辺で終わっておけば青春群像劇の1シーンっぽくなったかもしれない。 だが最後の最後に俺は、許されざる致命的なミスを犯してしまった。 追いかけっこの後、激しく息を切らせて部室の入り口にへたり込んだ俺に、朝倉が汗を拭けとばかりにハンカチを貸してくれたわけだが…… 本当にもう、魔が差したとしか言いようがない。 手にもったそれを見つめながらしばしの葛藤の後、そのハンカチを口元に当てて思いっきり息を吸い込んだところを、バッチリ本人に見つかった。他の連中に気付かれなかったのは、不幸中の幸いと言っていいものかどうか。 「ふぅん、そっか。なるほど」 ニヤニヤしながら、赤くなったり青くなったりしている俺を見つめつつ、朝倉はずっと「なるほど」と呟いていた。 なんだろう、この何ともいえない絶望的な気分は。いっそ思いっきり罵声を浴びせて責めてほしい。そんな嬉しそうにしてる意味が分からない。 ありとあらゆる神仏や生んでくれた両親に誓ってそんなことをした経験は無いと言っておくが、小学生の頃にかわいいあの子のリコーダーを放課後にこっそり咥えてみたりした現場を見られてしまったヤツってのは、こんな気持ちなのかもしれない。 「私はハンカチの残り香なんかじゃ満足できないかもね」 帰り際、こっそりそんなことを言ってきた朝倉に、俺は何も言い返せなかった。 ……満足できないなら、どうするつもりなんだ。 「キョンくん、今日はウチで夕飯食べて行かない?」 「は、」 「ひとり暮らしって便利よね、何をやっても自由だもん。……何をやっても、ね」 「…………」 ――この後どうなったかって? それは『禁則事項』っていう便利な言葉があってだな。 つまりはそういうことだ。好きに想像すればいいじゃないか。 (終) |